東京裁判とはどのような「裁判」だったのか
―アパ日本再興財団主催 第9回 真の近現代史観懸賞論文受賞作品―
(平成28年)

針原 崇志



序論


8月15日9度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに15箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。

昭和28(1953)年8月3日、この一文に始まる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が衆議院で可決された。決議には「A級戦犯」や「BC級戦犯」といった区別はない。東京裁判(極東国際軍事裁判)はじめ各地の戦犯裁判で「犯罪者」のレッテルを貼られたすべての人々はすでに赦免されており、もはや「戦犯」ではないのである。

これに対し「この決議は拘留中の者の釈放を要求しただけであって、これによって戦犯が名誉を回復したというのは欺瞞だ」と強弁する反論もあるが、提案趣旨説明の中で山下春江議員(改進党)はこう述べている。

「結局、戦犯裁判というものが常に降伏した者の上に加えられる災厄であるとするならば、連合国は法を引用したのでもなければ適用したのでもない、単にその権力を誇示したにすぎない、と喝破したパール博士の言はそのまま真理であり、今日巣鴨における拘禁継続の基礎はすでに崩壊していると考えざるを得ないのであります。」(1)

東京裁判の判事11名のうち唯一の国際法学者にして唯一被告人全員を無罪と結論付けたパール判事の主張を前提として決議がなされているのである。当時は東京裁判を不当と断じ「戦犯」を赦免する良識が働いていたのである。

ところが半世紀以上を経た今、「A級戦犯」が合祀された國神社に首相・閣僚が参拝するたび喧しい批判の声が上がり、果ては「分祀」の意味も知らないままに「A級戦犯分祀」を唱える輩さえある。

「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面をはぎ取った暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。」(2)

パール判決文を締めくくるこの有名な予言に反し、時を経るにしたがって症状はむしろ悪化しているといわざるを得ない。そもそも「A級戦犯」とは何者か、「A級戦犯」を生み出した東京裁判がどのようなものであったか、それすら知らないまま盲目的に「A級戦犯」を糾弾しているのではなかろうか。

そこで以下、東京裁判とはどのような裁判であったのかを「誰が裁かれたのか」「どのような罪責で裁かれたのか」「どのような手続に則って裁かれたのか」「誰が裁いたのか」の4つの視点から概観しつつ、東京裁判がいかに不当なものであったかを解明していくこととする。



誰が裁かれたのか


東京裁判では、東條英機はじめ被告人28名が「平和に対する罪」、つまり「侵略戦争」に加担したものとして起訴された。うち25名が判決を受け(2名は裁判中に死亡、1名は精神異常により除外)、23名が「平和に対する罪」について有罪とされた。この有罪判決を受けた23名がいわゆる「A級戦犯」である。東京裁判によって7名が絞首刑とされたが、その一人、松井石根は「平和に対する罪」については無罪判決を受けており「A級戦犯」には該当しない。したがって、仮に國神社から「A級戦犯」を「分祀」したとしても、「南京事件」の責任者として処刑された松井石根の御霊は國神社に残ることになるのだが、「A級戦犯分祀」論者はそのことを認識しているのだろうか。

それはともかく、被告人28名は厳密な調査の上で決定されたものではなかった。

連合国軍最高司令官マッカーサーはGHQ民間諜報局長ソープ准将に、政治的戦争犯罪人のリストを作るよう命じた。ところが日本の政治や軍に関する知識に乏しかったソープの戦犯リスト作成は遅々として進まず、やむなく紳士録や歴代内閣の閣僚名簿などから著名人をピックアップしたところ、その数は数百名にも上った。その後ようやく26名にまで絞り込んだにもかかわらず、被告人発表の直前になってソ連からその中に含まれていなかった2名を加えるよう強い要望があり、その2名が加えられた(3)。つまり知名度によって「演者」を選び、主催者のリクエストに応じて「演者」を調整するという、いかにも政治ショーらしい過程を経て選ばれたのが被告人28名だったのである。

そうした経緯で選ばれた結果、被告人の顔ぶれを見れば、政党に重きを置いた内閣を組閣しようとした広田弘毅がいれば、その組閣に横やりを入れた武藤章がおり、ナチスとの連携を推進した大島浩がいれば、これに反対して駐独大使を罷免された東郷茂徳がおり、対米英協調派の外交官・重光葵がいれば、対米英強硬派の外交官・白鳥敏夫がいるという、およそ共同謀議などとは程遠いものであった。被告人の一人、賀屋興宣は冷笑的にこう述べた。

「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」(4)

このように脈絡なく選ばれた被告人28名の共通点を強いて上げるとすれば、28名全員アメリカとの戦争を望んでなどいなかったのではなかろうか。東京裁判の主役ともいえる東條英機も、けっして望んで戦争に及んだわけではなかった。

いわゆるABCD包囲網による経済封鎖を受け、日米和平交渉も進捗せず、もはや開戦やむなしという情勢の中、昭和天皇はなおも戦争回避を望まれた。内大臣木戸幸一はこれを受けて、陸軍の強硬派を抑えつつ和平交渉を継続するためあえて陸軍の強硬派であった東條を首相に推挙した。図らずも組閣の大命を受けた東條は、昭和天皇の御意向を体して、開戦に反対していた東郷茂徳に外相就任を要請した。その際、東條はこう語っている。

「自分は日米交渉進捗のため軍部を抑えなければならない。そのために総理と陸相とを兼務することにしたのだ。だから君は平和主義を実行することが出来る。」(5)

そうして引き続き粘り強く交渉を続け、わが国は譲歩に譲歩を重ねたが、アメリカは最終的にわが国にハルノートを突き付けてきた。それまでの交渉の経緯を全く踏まえず、交渉のスタート時点よりもさらに苛酷な条件を要求するハルノートの提示を受け、アメリカ側に和平実現の意思のないことを悟り、やむなく開戦に及んだのである。昭和天皇の御意向に応えられなかったことを悔い、東條は開戦前夜、寝床に正座して一人号泣したという。

東條英機、東郷茂徳、木戸幸一、いずれの「A級戦犯」も戦争回避に向けて尽力していたのである。もし戦争を始めたことが「犯罪」だとするならば、戦争する気のなかった日本に引き金を引かせた真の黒幕、ルーズベルト大統領やハル国務長官こそ「A級戦犯」として処罰されるべきであろう。



どのような罪責で裁かれたのか


近代刑法には「罪刑法定主義」という大原則がある。いかなる行為が罪であり、その罪を犯せばどのような刑に処せられるか、あらかじめ法で定められていない限り処罰されることがあってはならない、というものである。つまり「法的な根拠はないけれども、悪いことをしたのだから処罰してしまえ」ということがあってはならないのである。

その罪刑法定主義から「事後法の禁止(遡及処罰の禁止)」という派生原理が導き出される。行為の時点では違法とされていなかったことを、事後に法を作り、過去にさかのぼって処罰してはならない、というものである。たとえば、「喫煙した者は処罰する。過去に喫煙した者も同様とする。」という法律が制定され、その制定以降にタバコを吸った者のみならず、昔はタバコを吸っていたが今は全く吸っていないという者まで処罰されてしまう。常識的に考えればきわめて理不尽であり、理不尽であるがゆえに禁じられているのであるが、その理不尽なことが東京裁判では行われていたのである。

東京裁判の開廷に先立ち、マッカーサーの命を受けて極東国際軍事裁判所条例(以下「裁判所条例」)が作られた。裁判所条例には裁判所の構成や裁判の進め方などが規定されており、これに則って裁判所が設けられ裁判が進められたのだが、その第5条に、裁判所で取り扱うことができる犯罪として、「通例の戦争犯罪」のほか、前述の「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が掲げられた。「平和に対する罪」は「侵略戦争」の計画、準備、開始、遂行を行ったり、あるいはそれらを行うための共謀に参画したことを犯罪したものであり、「人道に対する罪」は一般市民に対する殺戮や虐待、政治・人種・宗教を理由とした迫害行為を犯罪としたものである。しかし、これらはいずれも従来の国際法には存在しない「犯罪」であった。マッカーサーが勝手に新たな「法」を作り、過去にさかのぼってこれを適用して、行為当時には合法であった行為を「犯罪」として裁いたのである。

ただし、「人道に対する罪」は結局適用されなかった。起訴状では「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」に該当するものとされた訴因についても、最終的には交戦法規違反、つまり「通例の戦争犯罪」として判決が下されている(6)。

そもそも「人道に対する罪」は、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を裁くために作られたものであった。従来の交戦法規では敵国の一般市民に対する虐待は禁じられていたが、ホロコーストのような自国の一般市民に対する虐待を犯罪とする法的根拠が国際法上存在しなかったため、ナチスを裁いたニュルンベルク国際軍事裁判所規約の中でこれを処罰するための「戦争犯罪」として(そもそも「戦争」に伴う犯罪ではなく純然たるドイツ国内の事件だが)規定されたのである。それを東京裁判でも再現し同じように裁くことで日本をナチスドイツと同類の残虐国家と印象付けようと試みたものの、日本にはホロコーストのような自国の一般市民に対する虐待などなく、いわゆる「南京事件」などについても交戦法規違反として裁くことができたため適用されなかったのである(7)。

検察側が提出した起訴状には当初55もの訴因が掲げられた。中には、ニュージーランドやカナダに対する戦争準備計画や、日本と同盟関係にあったタイに対する大東亜戦争の開始・遂行といった荒唐無稽なものまであったが、重複するものはまとめられ、取捨選択を経て、最終的に10の訴因について判決が下された。そのうち8つが「平和に対する罪」に該当し、残る2つが「通例の戦争犯罪」に該当する。

東京裁判で審理の中心となったのは「平和に対する罪」に関する事案であったが、「平和に対する罪」の有罪判決だけで絞首刑となった者はおらず、絞首刑となった7名はいずれも「通例の戦争犯罪」について有罪判決を受けている。さすがに国際法上の根拠の乏しい「平和に対する罪」だけで被告人を死刑にするのは難しいだろうとの判断から、被告人を死刑にするための根拠として「通例の戦争犯罪」が東京裁判でも扱われたのである(8)。つまり量刑で比較すれば「平和に対する罪」よりも「通例の戦争犯罪」のほうが重罪といえよう。

たとえば絞首刑となった一人、松井石根は前述のように「平和に対する罪」に該当する訴因のすべてについて無罪判決を受けており、唯一、訴因第55(俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)についてのみ有罪とされた。具体的には、松井が指揮する日本軍が南京に入城して以降、一般市民に対する残虐行為が頻発していたにもかかわらず、そうした残虐行為を防止すべき法律上の義務を無視して有効的な手立てを採らなかったことが交戦法規に違反するというものである。

残虐行為の防止義務違反を直接的に犯罪とする法的根拠はなかったが、一般市民を組織的に虐殺したナチスドイツと、組織的な虐殺などなかった日本とを同じように裁いて、両者を同類だとアピールしたいがために、どこの戦場でも起きているような偶発的な事件(及び捏造された事件)を取り上げ、「残虐行為が起きているのを知っているのに何もしなかったのは、残虐行為を命じたのも同然だ」という理屈で実行犯のみならずそのはるか上の指導者層にまで責任を負わせようとしたのであろう。

そのように、本来ならば作為(積極的に行為に及ぶこと:ここでは一般市民の虐待を命じること)によって実現されることを想定した犯罪(一般市民の虐待)を、不作為(何もしないこと:ここでは虐待が起きているのを知っているのに何もしなかったこと)によって実現したのも同然だとして責任を追及すること(不真正不作為犯)について、パール判事は「責任は作為と同様不作為からも生ずるということは刑法では十分確立された法則である」としてこれを認めつつも、ただしその要件として、行為者に事件発生を防止するための行為をなすべき義務があることに加えて、不作為によって事件が発生したという確実な因果関係が認められなければならないものとしている (9) 。

たとえば、乳児にミルクを与えて保護すべき法的責任のある母親が、殺意をもってあえてミルクを与えず乳児を死に至らしめた場合、不作為(ミルクを与えなかったこと)と発生した事件(乳児の死)との間に「母親がミルクを与えなかったから乳児が死亡した」という因果関係が認められ、作為による殺人(手を下して殺害すること)と同視して、「何もしていない」母親を「人を殺した」ものと評価して処罰することも認められよう。

では、「南京事件」は松井が「何もしなかった」ために発生したのであろうか。

松井は南京攻略に先立ち、日本軍に対し、軍規・風紀を厳重にして不法行為などのないよう命じている。それにもかかわらず軍規・風紀違反があったとの報告を受け、病床にあった松井は病床から命令の厳重な実施を再三命じている。パール判事はこれらを評価して、松井は司令官としてなすべきことをなしており、たとえ違反行為があったとしてもそれは命令を実施し違反者を処罰する任務を負う将校や憲兵の責任であるとして、松井については「法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことはできない」とした(10)。「松井が何もしなかったから「南京事件」が発生した」という因果関係を否定し、責任を追及することはできないと断じたのである。

しかし東京裁判では、松井が行動を厳正にするよう再三命じたことは認めつつも、その後も残虐行為が続いたことを捉えて「何もしなかったか、何かしたにしても効果のあることは何もしなかった」として有罪判決が下された(11)。母親と乳児の例でいえば、母親がミルクを与えようと懸命に努めたにもかかわらず、乳児が飲んでくれなかったために死亡してしまった事案について、「ミルクを与えようとしたことは認めるが、結果的に乳児を死なせてしまった以上、あえてミルクを与えずに殺害したのと同じことだ」として、母親を殺人犯と断罪したようなものである。

日中友好論者として知られ、日中両国の戦死者をともに祀る「興亜観音」を建立して菩提を弔った松井であったが、このような理不尽な罪を着せられ処刑されたのである。

同様に、広田弘毅も「南京事件」について「何もしなかった」との理由で有罪判決を受け処刑されたが、広田は当時外相という地位にあっただけであり軍に関わる立場にすらなかった。現地の司令官であった松井に対する判決でさえ上記のとおり理不尽なものであれば、広田に対する判決がいかに理不尽なものであるか、重ねて説明するまでもなかろう。

松井と広田の死刑判決という結果は、戦犯追及の急先鋒にあったキーナン首席検事にも予想外だったらしく、閉廷直後こう不満をぶちまけている。

「なんというバカげた判決か。(中略)松井、広田が死刑などとはまったく考えられない。松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか。広田も絞首は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか。」(12)

「通例の戦争犯罪」といえども、けっして「通例」ではなかったのである。



どのような手続きに則って裁かれたのか


そもそも「南京事件」なるものを認定するに至った証拠調べも、きわめて不当なものであった。

通常の刑事裁判では、伝聞(また聞き)は証拠としての能力を持たないものとされている(伝聞証拠禁止の原則)。伝聞には真実に尾びれ背びれがついていることが往往にしてあり信憑性に欠ける上、疑わしい点を反対尋問によって確かめようにも証人としては「そのような話を聞いた」としか答えようがなく、それ以上真相を追究することができないため、たとえば刑事訴訟法(第320条)でも伝聞は証拠とすることができないものとされている。

ところが東京裁判で提出された証拠の大半は伝聞証拠であった(13) 。

裁判所条例第13条には「本裁判所は証拠に関する専門技術的規則に拘束されることはなく、本裁判所で証明力があると認めるいかなる証拠をも受理するものとする」と規定されていた。つまり、いかに怪しげな伝聞証拠であっても、裁判所が「証拠力がある」とさえ認めれば証拠とすることができたのである。

たとえば証人の一人、マギー牧師は南京での日本軍の残虐行為についてこう証言した。

「日本軍の暴行はほとんど信用することのできないほどひどいものでありました。最初その日本軍によりまする中国人の殺戮が始まりましたのは、いろいろな方法で行われたのでありますが、まず最初には日本軍の兵隊が個々別々にあらゆる方法によって中国人を殺したのでありますが、その後になりまして30名もしくは40名の日本軍が一団となって、その殺戮行為を組織的にやっていったのであります。これらの日本兵はその手中にまったく中国人の生命すなわち死活の権を全然にぎっておったように思われたのであります。間もなくこれらの日本軍によりまする殺戮行為はいたるところで行われたのであります。しばらくいたしますると南京の市内にはいたるところに中国人の死骸がゴロゴロと横たわっておるようになったのであります。これらの殺戮行為は、あるいは機関銃により死んだ者もあり、その他の方法によって殺されたのでありますが、時々中国人が列を作って引っ張られていく、そうして殺されるのを私は目撃したのであります。」(14)

ところが、被告側弁護人がマギーに対して、マギー自身はそういった不法行為や殺人行為などの現行犯をどれくらい目撃したのかと質問したところ、マギーは、ただ1件だけだと答えている(15)。つまり証言のほとんどは、通常の裁判ならば却下されるような伝聞ばかりだったのである。

しかもそう答えたことで、「時々中国人が列を作って引っ張られていく、そうして殺されるのを私は目撃したのであります」という証言が偽証だとボロを出してしまっている。通常の刑事裁判であれば、虚偽の証言をした証人は偽証罪として罰せられるが、東京裁判では偽証を罰せられることはなく、証人はいくらでもウソをつくことができたのである。

マギーのほかにも、日本軍に連行されたとするある証人は、各地で多くの一般市民が殺害され、日本兵が建物に放火するのを目撃したと証言したが、この証人についてパール判事はこう皮肉っている。

「この証人は本官の目にはいささか変わった証人に見える。日本人はかれを各所に連れてその種々の悪行を見せながらも、かれを傷つけずに赦すほどかれを特別に好んでいたようである。」(16)

そのような怪しげな証拠が採用される一方で、日本軍によって中国が平和を回復し、落ち着きを取り戻したことを示す証拠など、日本側に有利となる証拠は却下された(17)。

東京裁判のもたらした功績として「南京虐殺事件などの「歴史の真実」を明るみに出した東京裁判の功績も認めるべきだ」とする主張もあるが(18)、このような証拠調べによって認定された「南京虐殺事件」が「歴史の真実」などとは噴飯物である。



誰が裁いたのか


裁判を主宰する裁判官は、本来、被害者にも被告人にも加担しない公正中立の第三者がその任務に当たるべきものである。したがって、たとえば刑事訴訟法では、裁判官が被害者本人である場合、あるいは被害者や被告人の関係者である場合には、裁判官としてその事件を扱うことができないものとされている(刑事訴訟法第20条)。

ところが東京裁判では、11名の判事全員が戦勝国とその自治領の代表であった。

その一人、フィリピン代表判事ハラニーリャは、戦争中に日本軍の捕虜となり、いわゆる「バターン死の行進」を体験した人物であった。裁判ではその恨みを晴らすかのように、被告人全員絞首刑という苛烈な主張をしていた。日本軍によって辛い目に遭わされた張本人が裁判官として戦争中の日本の指導者層を裁こうというのであるから、公正な裁判など期待できるはずはない。またオーストラリア代表のウェッブ裁判長は、戦争中、ニューギニアにおける日本兵の不法行為を調査し、それをオーストラリア政府に報告する任務にあたっていた。喩えるなら、容疑者の取り調べを行った刑事がそのまま裁判官となって容疑者に判決を下すようなものである。

こうした判事の人選だけを見ても、東京裁判がどのような裁判であったのかを推察するのに十分であろう。

また、そうした公平性の問題以前に、そもそもこれらの裁判官に被告人を裁く権限などあったのかという根本的な問題がある。

わが国は、ポツダム宣言を受諾した。

ポツダム宣言について「日本国に無条件降伏を要求したものだ」とするデマが今なお歴史教科書でも吹聴されているが(19)、ポツダム宣言第5条には、「吾等ノ条件ハ左ノ如シ。吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ。」と規定されている。つまり、連合国側が日本に対する降伏の条件を提示し、その条件は日本を拘束するのみならず連合国側もこれを遵守すると宣言したのであって、その了解のもとにわが国は矛を収めたのである。

その第10条に、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム、一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ、厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。」と規定されている。したがって、ポツダム宣言に基いて戦犯裁判を行い、ポツダム宣言が提示された時点の国際法に照らして戦争犯罪人に該当する者を裁くことについては、日本側も了承したことであり、連合国側にはその権限がある。逆に言えば、それ以外の者を勝手に裁く権限など連合国側にはなく、それを行えばそれはポツダム宣言を逸脱した越権行為ということになるのである。

にもかかわらず、裁判所条例では、従来の国際法にはなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という「犯罪」が作られた。ポツダム宣言に依拠するならば本来裁くことのできないはずの行為を、裁判所条例は「犯罪」として裁くことができるものとしたのである。ということは、裁判所条例は、ポツダム宣言の条項を実施するための下位法としての単なる手続法などではなく、ポツダム宣言とは系統を異にする全く別個の法ということになるのである。

もっとも「人道に対する罪」は最終的には適用されなかったのでともかく、「平和に対する罪」について、東京裁判の判決は、1928年のパリ不戦条約(以下「不戦条約」)を根拠として、「国策としての戦争はポツダム宣言以前から不法とされており、そうした戦争を計画し、遂行し、加担した者を裁くことができる」と判示した(20)。あくまでもポツダム宣言に基づく、国際法に則った裁判であると主張したのである。

しかし、不戦条約は自衛のための戦争まで禁じたものではなく、そして自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかはその国自身が決定することができるものと解釈されていた(21)。その点わが国は、開戦の詔勅の中で「帝国ハ今ヤ自存自衞ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」、つまり自存自衛のため戦争に打って出るよりほかないのだと明確に宣言している。したがって、わが国が行った大東亜戦争は名実ともに自衛戦争に該当するのであって、不戦条約に抵触するものとして裁かれるいわれなどないのである。

第一、仮に不戦条約に抵触する戦争であったとしても、同条約はあくまでも戦争という「国家の行為」について規定したものであって、同条約中に個人の責任を追及する根拠となる規定は存在しない。同条約によって個人を裁くことなどできないはずなのである。

ところが東京裁判では、「国家的政策の手段としての戦争を放棄したにもかかわらず、そのような戦争を計画し遂行するのは、犯罪を行いつつあるものといえるのであって、国際法上保護されるべき国家の代表者といえども処罰を免れるものではない」(22)という理屈で、不戦条約を根拠に個人の責任を追及したのである。

しかし、罪刑法定主義の内容の一つに「明確性の原則」というものがある。漠然とした刑罰規定を根拠として不意打ち的な処罰がなされることのないよう、刑罰規定は具体的かつ明確に規定されていなければならないとする原則であって、このように法なきところに犯罪をつくるような強引な解釈によって処罰することは、近代刑法の原則からすれば許されないことなのである。東京裁判はこの原則も蹂躙したのである。

また、ポツダム宣言を根拠としているのであれば、その裁判で裁くことができる範囲はポツダム宣言受諾によって終結した戦争、つまり昭和20(1945)年9月2日の休戦協定調印によって終結した大東亜戦争、さらに加えるとしても、昭和12(1937)年7月7日に始まり後に大東亜戦争へとつながる支那事変に限られるはずである。

ところが東京裁判では、支那事変よりも以前に解決済みの満洲事変までも審判の対象となった。「15年戦争」という言葉に見られるように、満洲事変をもってその後15年にわたる日本による中国への「侵略」の開始と見る誤解が根強いが(その誤解こそ東京裁判の所産なのだが)、満洲事変は昭和8(1933)年の塘沽停戦協定で終結し、その後も若干の衝突はあったものの、昭和10(1935)年には日中間で大使を交換するまでに至っていた。満洲事変は完全に解決していたのである。一方、支那事変はその後の昭和12(1937)年7月7日、日本軍が北京南郊の盧溝橋で何者かから発砲を受けた(中国共産党の仕業とする説が有力)ことを発端とする事変であるが、発砲を受けた日本軍は満洲事変の延長で駐留していたものではなく、明治34(1901)年、北清事変(義和団事件)終結に際して清国が受諾した北京議定書に基いて、居留民保護のために駐留していたものである。つまり両者は全く別個の事件であって、支那事変に関わった者を裁く権限があったとしても、その延長として満洲事変の関係者まで裁く権限などないはずなのである。

また、ノモンハン事件(昭和14(1939)年)や張鼓峰事件(昭和13(1938)年)といった日ソ間の国境紛争まで審判の対象となったが、いずれも同年中に停戦協定によって解決した事件であり、その後(昭和16(1941)年)日本とソ連とは中立条約まで締結している。

つまり、東京裁判では、ポツダム宣言とは何ら関わりのない事件まで裁かれたのである。このこともまた、東京裁判がポツダム宣言から逸脱したものであることを示している。

東京裁判の判事がポツダム宣言に依拠する国際法上正統な権限を有する判事であるとしたならば、判事としてできることはただ一つ、パール判事のように国際法に則って被告人全員を無罪とすることだけであった。にもかかわらず、パール判事を除く10名の判事は、国際法上の正統性を有しない裁判所条例に則って被告人に有罪判決を下した。このことによって、10名の判事は、国際法上の正統な判事であることをみずから放棄し、戦勝国側の私刑(リンチ)に加担するエセ判事に成り下がったといえよう。

東京裁判とは、国際法上の正統性を有しない裁判所条例に依拠したエセ判事が裁いたものだったのである。



東京裁判を全面的に否定すべし


以上、東京裁判について「誰が裁かれたのか」「どのような罪責で裁かれたのか」「どのような手続に則って裁かれたのか」「誰が裁いたのか」という4つの視点から見てきた。ここで取り上げたほかにも追及すべき問題点は多々あるが、ひとまず以上の論述を要約すれば、東京裁判とは、裁かれるいわれのない者が、理不尽な罪を着せられ、不当な手続に則って、エセ判事によって裁かれたという、どこをどう捉えても裁判などと呼べるシロモノではなく、ただ裁判の外観を装っただけの「裁判ごっこ」だったといえよう。法治主義の観点からはこのようなものを断じて「裁判」などと認めるべきではなく、「戦犯」に下された判決はもとより東京裁判の中でなされた事実認定についても全面的にこれを否定すべきものなのである。

ところが「東京裁判を否定すべし」という主張に対し、左派陣営は、サンフランシスコ平和条約(以下「平和条約」)第11条を根拠として「わが国は東京裁判を受け入れることで国際社会に復帰したのだから、今さら異論を唱えるべきではない」と主張する。

これに対する反論として、保守陣営からは「第11条の“judgements”は本来「諸判決」と訳すべきであり「裁判」としたのは誤訳である。同条は、受刑者に対する刑の執行をわが国が引き継ぐことを規定しただけであって、東京裁判の見直しまでも禁じたものと解釈すべきではない」という主張がなされている。

平和条約第11条
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。
Japan accepts the judgements of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.

私見としては、法律用語としての「裁判」という言葉は、裁判所や裁判官が下す「判決」「決定」「命令」を意味する言葉として用いられることもあるので(例:刑事訴訟法第44条「裁判には、理由を附しなければならない。」)「諸判決」と訳すべきところを「裁判」と訳したとしても必ずしも誤訳とはいえないであろうと考えるものではあるが、そもそもこの条文の解釈については、そのような法文の語義に立ち入る以前の、もっと根本的な見地からその当否の判断がなされるべきではなかろうか。

すなわち、ある条文の解釈として解釈Aと解釈Bが主張されている場合において、解釈Aを採ったならばその条文が法治主義の精神に反するものとなってしまう場合、断じて解釈Aを採るべきではない。なぜなら、解釈Aを採ったならば、それは法みずからが法治主義を否定するという、いうなれば「法の自殺行為」となってしまうからである。

縷々述べてきたように、東京裁判は法的な問題点を多々含む不当極まりないものであった。その東京裁判の不当性を追及するのを平和条約が阻止するとしたならば、それは平和条約という「法」が東京裁判の「不法」に加担し、法みずからが不法を擁護、助長することとなってしまうのである。法をもって不法を守る盾とするなど断じて認められるべきではない。しかも、国際法は今なお発展途上にあるといえよう。そしてその発展には時として過去の事例を批判的に検証することも不可欠と考える。にもかかわらず平和条約がそれを禁じたものと解釈するならば、それは法の発展、ひいては法の支配による平和の実現を、法みずからが阻害することを意味するのではなかろうか。立法者(ここでは特に連合国側)の意図がいかなるものであれ、法を解釈するにあたっては、そうした法治主義を蹂躙するような解釈などすべきではないのである。

したがって、“judgements”の邦訳が「裁判」であれ「諸判決」であれ、平和条約第11条はあくまでも刑の執行の承継のみを意味するものと解釈すべきであって(そう解釈したとしても、平和条約発効後は戦犯を赦免するのを通例とする国際慣習法からすれば異常な規定ではあるが)、東京裁判を再検証し、不当性を追及し、結論を見直すことまで禁じたものと解釈すべきではないと考えるものである。

それでもなお、戦後日本を拘束し続けたきわめて強力なるGHQの呪縛ゆえに東京裁判の否定をためらう向きもあろうが、東京裁判が不当なものであったことは日本国内および近隣諸国以外ではもはや常識といえよう。常識を「常識だ」というだけのことである。何も躊躇することなどない。

東京裁判を不当だったとする声は世界中数多くの政治家、軍人、学者などから上がっており(23)、しかも第三者のみならず、この裁判に携わった当事者さえも東京裁判が不当なものだったと認めているのである。

東京裁判の最高責任者であったマッカーサーは、自伝にこう記している。

「占領中に経験したことで、極東国際軍事裁判の判決を実行に移すという義務ほど私が懸念したものは、おそらく他にあるまい。

私は戦争中、捕虜や被抑留者に残虐行為を加えたり、それを許したりした敵の現地司令官、その他軍関係者に対する刑罰は承認したことがある。しかし、戦いに敗れた国の政治的指導者に犯罪の責任を問うという考え方は、私にはきわめて不愉快であった。そのような行為は、裁判というものの基本的なルールを犯すことになる、というのが私の考えだった。」(24)

マッカーサーから政治的戦争犯罪人のリストを作るよう命じられたソープ准将も東京裁判を不当と考えていた。

「敵として見た場合、トウジョウをはじめ、ただ怒り、正義その他の理由だけで、即座に射殺したい一群の連中がいたことは、たしかである。しかし、そうせずに、日本人に損害をうけて怒りにもえる偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった。」(25)

松井石根と広田弘毅の死刑判決に不満をぶちまけたキーナン首席検事も、後年東京裁判が不当だったと認めている。

「東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として復讐の感情にかられた、公平ならざる裁判だった」 (26)

ウェッブ裁判長にいたっては、東京裁判が始まるよりも以前からすでに、オーストラリア外務省に宛てた書簡の中でこう主張していた。

「国際法に基づく厳密なやり方をあきらめて、特別法廷で蛮行ともいえる見世物的な公開裁判を行うべきではない。」(27)

東京裁判の当時は各々の立場上これに加担したものの、やはり不当だったと素直に告白する姿勢に、法と真摯に向き合う者の誠実さを見ることができる。

翻って、祖国日本を貶めんとする欲望に駆られて真理をねじ曲げ、東京裁判を正当化しようと必死な輩を見るにつけ、法に対する不誠実さ、良識の欠如、理性の頽廃といった醜悪さを覚えざるを得ない。裁判を主導した人々さえも不当だったと認めている東京裁判の中に何とか功績を見出そうと躍起になる姿勢はもはや常軌を逸しているというほかあるまい。

東京裁判のもたらした功績はただ一つ、裁判というものの「最悪の見本」を後世に残したことだけである。これを悪しき前例としてその不当性を徹底的に追及することによってのみ、東京裁判は法の発展に寄与するものとなるのである。

戦犯裁判を非とし「戦犯」を赦免した、かつての日本人が持っていた良識を取り戻さなければならない。

そして、「法務死」された方々も含むすべての御英霊に対し、心静かにねぎらいと感謝の念を捧げたいものである。

以上



(1) 佐藤和男『世界がさばく東京裁判』p243
(2) 東京裁判研究会編『パル判決書(下)』p745
(3) 児島襄『東京裁判(上)』(p111)は重光葵・梅津美治郎が被告人に加えられたのと入れ替えに阿部信行・真崎甚三郎が被告人から外されたとしているが、日暮吉延『東京裁判』(p109-111)はこれを誤りとしている。ここでは後者を採った。
(4) 児島襄『東京裁判(上)』p119
(5) 土屋道雄『人間東條英機』p138
(6) 毎日新聞社刊『東京裁判判決』p296参照
(7) 日暮吉延『東京裁判』p26-29参照
(8) 日暮吉延『東京裁判』p112参照
(9) 東京裁判研究会編『パル判決書(下)』p612-613参照
(10)東京裁判研究会編『パル判決書(下)』p617-618参照
(11)毎日新聞社刊『東京裁判判決』p305参照
(12)早瀬利之『将軍の真実』p311-312
(13)東京裁判研究会編『パル判決書(上)』p538
(14)洞富雄編『日中戦争史資料8』p87
(15)滝谷二郎『目撃者の南京事件』p103-104参照
(16)東京裁判研究会編『パル判決書(下)』p600
(17)東京裁判研究会編『パル判決書(上)』p575参照
(18)平塚柾緒『東京裁判の全貌』p16-17参照
(19)『中学社会歴史的分野』(日本文教出版)p236、『中学歴史』(清水書院)p243、『ともに学ぶ人間の歴史』(学び舎)p252、等参照
(20)毎日新聞社刊『東京裁判判決』p9-10参照
(21)日本外交学会編『太平洋戦争原因論』p491参照
(22)毎日新聞社刊『東京裁判判決』p9-p10参照
(23)佐藤和男『世界がさばく東京裁判』参照
(24)ダグラス・マッカーサー『マッカーサー回想記(下)』p189
(25)児島襄『東京裁判(上)』p7
(26)山本健造『日本の心靖国を守れ』p89
(27)『朝日新聞』平成7年2月8日付



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