朝鮮の民主制を育んだわが国の朝鮮統治
―日本統治下の朝鮮人参政権に見る朝鮮統治の実態―

(平成30年)

針原 崇志

緒言


「(日本は朝鮮に)強い権限を持つ朝鮮総督府を設置して、
武力で民衆の抵抗をおさえ、植民地支配を推し進めました(1)。」
「朝鮮総督府は、あらゆる政治運動を禁止し、(中略)
先に植民地となった台湾と同様に、朝鮮の人々には選挙権が認められず(2)
「植民地であった台湾や朝鮮では、議会の選挙は行われませんでした(3)。」

戦前のわが国の朝鮮統治について、現在使われている歴史教科書にはこう記されている。
だが実際には、日本本土(以下、内地)に居住する朝鮮人には
日本人と同等に選挙権・被選挙権とも認められており、
帝国議会では朝鮮人の(ぼくしゅんきん)が2期にわたって衆議院議員を務め、
地方レベルでも、数多くの朝鮮人が内地の市区町村会の議員となっていた。
ちなみに、選挙によるものではないが、貴族院でも10名の朝鮮人議員が籍を置いていた。

そして朝鮮でも、大正9(1920)年には地方レベルで選挙が実施されており、
さらには選挙の実施こそ実現しなかったものの、
昭和20(1945)年には朝鮮でも衆議院議員選挙を実施する法制が整えられていた。

にもかかわらず、そうした事実はこんにちの偏向教育では黙殺され、
かえって上述のように史実に反するデマが垂れ流されているのである。
のみならず、朝鮮統治を肯定的に評価する立場からも、せいぜい朴春琴の存在が紹介される程度で、
参政権全般について論じられることはあまりないのではないだろうか。

しかしながら、こうしてわが国の施政下にあった朝鮮人に参政権が認められ、
わが国の政治の一翼を担っていたという事実は、
上掲の教科書でも流布されているような、カイロ宣言のいうところの「朝鮮の人々の奴隷状態」という
歪曲されたイメージを覆すきわめて重要な事実であり、
これを究明することは、
ひいてはそうしたイメージをもとに創作された「従軍慰安婦の強制連行」などといった
荒唐無稽な与太話の前提を突き崩すのにも資することとなろう。

そこで以下、日本統治時代の朝鮮人に認められていた参政権に焦点を当て、これを追究することを通じて、
わが国による朝鮮統治がいかなるものであったのか、その実態を明らかにしていきたい。

なお、内地に居住する朝鮮人と朝鮮に居住する朝鮮人とでは、
認められていた参政権の態様を異にしていたため、この両者を分けて論じることとする。


内地に居住する朝鮮人の参政権


韓国併合当時、衆議院議員選挙法には、選挙権取得の要件として、
@帝国臣民たる男子にして年齢満25歳以上であること、
A1年以上その選挙区内に住所を有していること、
B直接国税10円以上(後に3円以上に引き下げられた)を納めていること、
の3点が掲げられていた。

同法は台湾割譲や韓国併合以前に制定されており、
帝国臣民といえば日本人であることを前提としていたので、
「日本人であること」といった要件など当然ながら明記されておらず、
新たに帝国臣民となった朝鮮人や台湾人であっても上の要件を満たせば選挙権を取得できるのか否かは
同法の解釈に委ねられることとなった。

そうした中、大阪府が政府に、
管轄内の朝鮮、台湾、樺太人を選挙人名簿に登録すべきか否か照会したところ、内務省は
「朝鮮、台湾、樺太人とも総ての資格要件を具備するに於ては選挙権を有する義と存(4)
と回答した。

これを受けて大正9(1920)年3月、大阪府で要件を満たした朝鮮人が選挙人名簿に登録された。
この時点では、その人数はわずか2名のみだったが、
大正14(1925)年、衆議院議員選挙法の全面改正(いわゆる普通選挙法)により
納税要件が撤廃されたことで朝鮮人の有権者数は大幅に増加し、
昭和11(1936)年には全国で約4万2千人の朝鮮人が選挙権を有することとなっ(5)

しかし、漢字や仮名を書けないために投票することができず棄権する朝鮮人も少なくなかった。
そうした事態を、内務省は
「朝鮮人の選挙権に対する理解要求共に当時に比し進歩せるにもはらず
単に本邦固有の文字を書する能はざるがために折角の権利を行使するを得ざらしむる如きは
事実上甚だ不当な(6)
として、昭和5(1930)年1月31日、ハングルによる投票を有効とすることを決定した。

歴史教科書には「学校では朝鮮の文化や歴史を教えることを厳しく制(7)」したと記されているが、
普通学校(朝鮮人の子弟を対象とした初等教育機関)はじめ朝鮮の学校では朝鮮語の授業が設けられ、
ハングルも教えられてい(8)
しかも選挙という公的な場で、ハングルによる投票も認められていたのである。
わが国が「朝鮮民族の歴史や文化を否(9)」したとする歴史教科書の記述は真っ赤な嘘である。

ともあれ、このように単に朝鮮人の選挙権を認めるのみならず、
その行使を促進すべく積極的に働きかけていたのである。

また被選挙権も認められており、みずから立候補する朝鮮人もいた。
その一人が朴春琴である。
朴春琴は昭和7(1932)年、東京4区で立候補し、朝鮮人有権者1236人のところ6966票を獲得、
11人の候補者中3位の得票数で当選し(10)
数多くの日本人が朴春琴に投票したのである。
その後昭和12(1937)年に再度当選を果たし、2期9年にわたって衆議院議員を務めた。

このように国政レベルの参政権さえ認められていた以上、
当然ながら地方レベルでも参政権が認められており、
市会で31名、町会で20名、村会で29名、区会で2名(いずれも延べ人数)の朝鮮人が
議席を獲得してい(11)

以上のように、内地に居住する朝鮮人には、日本人と同等の参政権が認められており、
人種による差別など存在しなかったのである。

なお、当時の朝鮮人にこうして参政権が認められていたのは、
あくまでも、当時の朝鮮人が「帝国臣民」だったからである。

「戦前は朝鮮人にも参政権が認められていたのだから、
いまの在日朝鮮人・韓国人にも参政権を認めるべきだ」とする主張もあるが、
参政権取得の最も重要な要件ともいうべき国籍というものを度外視した
筋違いの謬論であることを、蛇足ながら付記しておく。


朝鮮に居住する朝鮮人の参政権


内地に居住していれば、朝鮮人であっても
衆議院議員選挙に投票し、立候補し、議員になる者までいたのに対し、
朝鮮では、日本統治時代を通じて衆議院議員選挙が実施されることはなかった。
当時の朝鮮では、内地の憲法や法律がそのまま直接適用されるのではなく、
朝鮮でも適用するか否かを朝鮮総督府が決定することができたところ、
衆議院議員選挙法は朝鮮では適用されず、選挙区が設けられなかったためである。

ただし、その不利益を被ったのは日本人も同様であった。
朝鮮で衆議院議員選挙が実施されない以上、
日本人であっても、朝鮮に移り住んでいれば内地並みの参政権は享受できなかったのである。

とはいえ、朝鮮に住んでいる大多数は朝鮮人なので、
当然ながらその不利益をより多く被ったのは朝鮮人だった。
そのため、そうした不公平の是正を図るべく、衆議院議員選挙法を朝鮮にも適用し、
朝鮮でも衆議院議員選挙を実施することを求める声が次第に高まった。
たとえば帝国議会でも、朴春琴と政府との間で次のようなやりとりがあった。

〇朴春琴
「朝鮮に対して参政権を与えるということは、私は日本の大陸的の発展上、
これ以上良いことはないと思うのであります。
今の内地は各方面から議員が出られまして、あらゆる方面のことを言っておられますが、
朝鮮にもそういうように帝国議会へ来て、総てのことを言いたいという人はありますけれども、
参政権がない為に、それを言うことができない。
できない為にいわゆる内地側から見れば、同じ国内でありながら朝鮮に対しては、
いわゆる他国のように、欧米のように考えて居る人が多いのであります。
そこで私は朝鮮に対して参政権を与えるということは、日本の大陸的見地から言っても然りですが、
また同一国民として、権利も義務もすべて共にしてこそ、
初めて私は同一国民ではないかと思うのでありま(12)。」

〇政府委員(金森徳次郎)
「朝鮮に於いて生まれられたる我が同胞に対しましては、一視同仁の御聖旨に従いまして、
民福を増進し、もって共に倶に東洋平和の確保を維持するという方針に付きましては、
何ら変わるところはない、何人も之に対して疑いを持つ者はなかろうと思うのであります。
殊に近時朝鮮生まれの同胞の方々が、段々各種の方面に発展をせられまして、
例えば、文化の方面に於きましても、高等試験などを年々受けて合格せられまして、
或いは弁護士となり、或いは司法官となり、或いは行政官となられる
資格を有する方々の増えまするようなことは、衷心より喜びに堪えないところであります。
お尋ねになりました所の参政権を賦与するという問題に付いて考えてみまするに、
物には各々順序がありまして、全体の制度を画一的に設けますることが、
果たしてよき結果を得るであろうかどうか、
これは国家全局の上からよく慎重に研究をしなければならぬと思うのであります。
現在の実情について考えてみまするに、教育の程度の普及如何、或いは政治に対する基礎の考え方が、
果たして全般的に行き渡っているかどうかというような点を中心と致しまして、
各種の点より考察いたしますると、今日(にわか)に参政権を付与することは
未だその時期に非ずと考えらるる次第でありま(13)。」

ちなみに、政府委員の答弁にある高等試験(高等文官試験)とは、
官僚や判事などになるための資格試験である。
朝鮮人の中には、この試験に合格し、官僚となって霞ヶ関に勤める者もいた。
そのように公務員として公職に就く権利(公務就任権)も、広い意味での参政権に含まれる。
そうした意味での参政権も認められていたのである。
そして公職に就く資格を有する朝鮮人が増えている状況を、
政府側は「衷心より喜びに堪えない」と歓迎の意向を示しているのである。
こうしたやりとりからも、当時の政府が、朝鮮人、すなわち「朝鮮生まれの同胞の方々」に対して
いかなる姿勢で臨んでいたのか伺い知ることができよう。

ともあれ、こうして朴春琴が朝鮮の人々に
内地と同等の権利(参政権)を与え、義務(兵役の義務)を課すことを要求したのに対し、
政府側は、一視同仁の大御心に適った要求である以上これを無下にはできず、
その趣旨には賛意を示しつつも、しかしながら時期尚早であるとしてこれをかわす、というやりとりが
幾度となく行われた。

これをとらえて「朝鮮人を差別していた」と非難するのは簡単だが、
しかしこうした政府の姿勢は、逆説的ながら、
わが国が当時かられっきとした民主国家であったことを如実に表しているといえるのではないだろうか。

たとえば、中国共産党(及びその衛星政党)以外に選択の余地がなく、
自由に発言することも許されない一党独裁の中国であれば、
共産党政府に反発するウイグル人であれ、チベット人であれ、参政権を与えるのはたやすいことである。
むしろ、参政権を与えてウイグル人やチベット人の議員を作ることで
「中国共産党はウイグル人やチベット人からも支持されている」
というプロパガンダの役割を果たすことになろう。

だがわが国では、選挙に際して好きな政党、好きな人物に自由に投票することができ、
当選した議員は、上に見た朴春琴のように自由に発言することができた。
であるがゆえに、三一独立運動の記憶も新しい時期にあって、
帝国議会に朝鮮独立を求める声が上がるのを懸念して、
朝鮮における選挙の実施を躊躇したのも無理からぬことといえるのではないだろうか。

そもそも参政権とは、有権者がその私利私欲の実現を図るために
国政や地方行政をコントロールする権利ではない。
有権者が利己心を抑え、全体の利益を真剣に考えて丁寧に行使すべきものである。

つまり自由権(言論出版の自由、信教の自由、など)や
社会権(社会保障を受ける権利、教育を受ける権利、など)とは異なり、
民主国家における公民たる者の公務としての側面を多分に含んだ権利といえよう。

であれば、その参政権を適切に行使するためには、相応の教養が必要となるのはもとより、
さらにいえば、国や地域の一員たる自覚とこれを大切に思う心、
つまり愛国心、愛郷心が必要となるのではなかろうか。
こんにち愛国心といえば脊髄反射的に軍国主義と結びつける短絡思考が蔓延しているが、
愛国心は、民主制が衆愚制に堕するのを防ぎ、
健全な民主制を実現し維持するためにこそ必要といえるのである。

である以上、教育面で内地に比べて大幅に遅れ、
日本国民としての意識も醸成途上にあった朝鮮の人々に
安易に内地と同等の参政権を認めることができなかったのも、むしろ当然のことというべきであろう。

しかしその後時を経て、昭和20(1945)年4月、衆議院議員選挙法が改正され、
朝鮮に23の定数が割り当てられた。朝鮮でも衆議院議員選挙が実施されることになったのである。

この衆議院議員選挙法改正の背景には、
時の首相、その直前には朝鮮総督を務めていた小磯国昭の尽力があった。
小磯は
「朝鮮人一般の教養と生活程度は内地人に比し、今日、尚見劣りすることは事実であるが、
真に一視同仁の心構を以って其の教養を向上させると共に権利を附与して行くことは、
此の見劣りを減少して標準化に進ましめる刺戟ともなることに留意せねばならぬと考へるのであ(14)
との信念をもって、朝鮮総督時代には、朝鮮人の官吏を積極的に登用し、
内地の官庁におけるより多くの朝鮮人の採用を政府へ提言し、
朝鮮人企業への指導推進を行い、朝鮮人に対する差別取扱諸規定を撤廃する、
といった諸施策を推し進め、朝鮮人の地位向上に努め(15)
そして首相に就任するに至って、衆議院議員選挙法を改正し、朝鮮に適用することを決断したのである。

もっとも、当時はまだ内地との教育水準などの格差も著しかったため内地と同等というわけにはいかず、
直接国税15円以上を納めることを要件とする制限選挙であり、
定数も内地に比べてずっと少ないものではあったが、
いずれはそうした差異も解消していく方針であった。

だが結局、この後のポツダム宣言受諾によって
朝鮮がわが国の施政下から離れたため選挙の実施には至らなかったが、
もし選挙が実施されていれば、朝鮮選出の朝鮮人議員が、わが国の帝国議会で
わが国の国政に携わることになっていたのである。

一方、地方レベルでは朝鮮でも早くから選挙が実施されていた。

朝鮮は、京畿道はじめ13の道(内地の都道府県に相当する広域行政区画)からなり、
道は府(内地の市に相当)と郡に、郡はさらに面(内地の町村に相当)に区画されていた
(後に指定面(特に人口が多く朝鮮総督の指定を受けた面)を改め(ゆう=内地の町に相当)を新設)。

併合当初は公選制の機関は置かれなかったが、
大正9(1920)年、府に府協議会、面に面協議会が設けられ、
これら府協議会および指定面の面協議会の協議会員は選挙により選ばれることとなった。
また道にも道評議会が設けられ、評議会員の3分の1は道知事の任命によるものであったが、
残る3分の2は府・面協議会員による選挙で選ばれた。

これらの府・面協議会、道評議会は、いずれも
府尹(ふいん=
府の長官)、面長、道知事の諮問機関にすぎなかったが、
その後の昭和6(1931)年、道評議会は道会に、府協議会は府会に改められ、
(指定面改め)邑には邑会が設けられて、これらはいずれも議決権を有する議決機関となった。
一方、指定面以外の面協議会は依然として諮問機関のままであったが、
同年から公選制が導入され、朝鮮全土の自治体で選挙が実施されることとなった。
こうして徐々に朝鮮における地方自治が確立されていったのである。

もっとも、これらの地方選挙も地方税5円以上を納めることを要件とする制限選挙ではあったが、
それもいずれ撤廃されたであろうことは、
以上のような参政権拡大の傾向にかんがみるならば想像に難くない。

こうした選挙の実施に伴い、教育の場でも、有権者たるにふさわしい公民を育成するべく、
いわゆる民主教育も行われていた。

たとえば普通学校における修身の授業では、選挙について次のように教えられていた。

「皆さんは又、道評議会や府・面協議会の議員の選挙の行われることをしっていますか。
道評議会や府・面協議会は地方共同の利益を発達させ、衆民の幸福を増進するため、
教育や勧業や土木や衛生等の仕事をするについて、いろいろな相談をするために設けられてあるのです。
皆さんも他日公民としてこの会議に加わる評議会員や協議会員となったり、
あるいはこれを選挙したりすることが出来るのであります。
評議会員や協議会員はいずれも公共の仕事の相談にあずかる大切な職でありまして、
その人の適否は地方の幸福に大いなる関係があるのでありますから
性行の善良であって意見の正しい人を選ばなければなりません。
金銭物品その他自己の利益のためにその本心をまげて選挙するようなものは、
法律上処罰せられるのであります。
なお他人に強いられて所信をひるがえしたり、あるいはみだりに投票を放棄するようなものも
愛郷の念のないものというべきであります。
また議員に選ばれたものは、その職責の重大なことを思い、熱心に共同の福利を図り、
府・面の住民の信頼をむなしくしてはなりません。
また公職の地位を利用して私利を図ったり、あるいはいたずらに部落の感情に駆られ、
党派的精神に支配されて、紛擾(ふんじょう)を起したりするようなものは
共に郷里を愛護するものではありません。
皆さんは公民として、自分の府・面のことはすなわち自分のことと考えて、
自らこれを治めなければなりませ(16)。」

いまのわが国でも十分通用する内容といえよう。
このような教育が、戦前わが国の施政下にあった朝鮮で、
初等教育の段階から行われていたのである。
朝鮮人を被支配者として「奴隷状態」に置いておくつもりであったならば、
朝鮮の子供たちにこのような教育を施す必要などあったのだろうか。

「地方自治は民主主義の学校」との言葉もあるように、
地方選挙は、民主政治の訓練の場としても位置づけられる。
朝鮮総督府も、諮問機関として府・面協議会、道評議会を設置し、
選挙を導入した趣旨について、こう記している。

「(従来の諮問機関は)皆な政府の任命に係るものであって、
未だ民意を反映せしむるに遺憾の点が多かった。
って本府は(中略)一は以て民意の暢達に資し、一は以て地方自治に対する習練をなし、
以て将来地方自治制度確立に至るべき階梯として、に地方制度の改正を見たのである。(中略)
今回改正の趣旨は(中略)公選又は任命の諮問機関を設置したことであるが、
其の機関は諮問機関たるに止め、之が完全なる自治制度の実施は、
他日今一層の人文発達実力増進をつことにし(17)。」

内地でも、明治23(1890)年の帝国議会開設に先立って、
明治11(1878)年に府県会規則と郡区町村編成法が制定され、
小さな権限だけを有する地方議会が設置され、選挙が実施されている。

同様に、地方行政に民意が反映されないのを懸念した朝鮮総督府が、
民主政治を経験したことのない朝鮮に民主制を導入するにあたり、
まず第一段階として、諮問機関としての地方議会を設けて選挙を導入し、
次段階として、その地方議会に議決権を与えるとともに、選挙を実施する地域も拡大させて、
漸進的に民主制を普及させていったのである。

さきに朝鮮における衆議院議員選挙法の適用を断行した小磯国昭の業績を紹介したが、
それもけっして小磯ただ一人の気まぐれではなく、
わが国の施政方針として、いずれは朝鮮でも内地と同等の参政権を認めることを目指して、
地方選挙を通じて民主政治の訓練を行い、学校でも朝鮮の子供たちに民主教育を行って、
朝鮮の民主制を育んでいたと見るのが相当であろう。

その中途過程にあって朝鮮人に日本人と同等の参政権が認められなかったのをあげつらい
「朝鮮人を差別していた」あるいは「朝鮮人を懐柔するために、渋々わずかな参政権だけを認めた」
などと断ずるのは、あまりにも近視眼的にして、
かつ参政権というものに対する精到な考察を欠いた浅はかな結論というほかあるまい。


結語


「日本人の多くは朝鮮人に対する差別の意識をもち、彼らを危険な人びととみてい(18)。」
歴史教科書には、このように、
わが国がいかに朝鮮人を差別したか、いかに酷い目に遭わせたかといったことばかりが、
本文中いくつか紹介したような史実に反するデマまで並べ立てて書き連ねられている。

むろん中にはそうした差別意識を持つ者もいたにせよ、
しかしながら以上のように、わが国は、一視同仁の精神をもって朝鮮人に臨み、
その地位向上と能力増進を図り、以てその処遇を改善するべく誠実に努めていたのである。

歴史に「もしも」は禁物といわれるが、
もしもわが国の朝鮮統治が続いていたならば、現在の北海道や沖縄と同様、
朝鮮でもごく当たり前のように国政選挙が行われ、
いずれ朝鮮選出の朝鮮人議員の中から大臣、さらには首相が誕生していたかもしれない。

実際、軍部では朝鮮人である洪思翊(こうしよく)が中将にまで昇進して
帝国陸軍の中枢で活躍していた事実にかんがみても、
それはけっしてありえない事ではなかったであろう。

イギリスでは、イングランドと合邦したスコットランドからブレア首相やブラウン首相を輩出しているが、
朝鮮も同様の立場にあったのであって、
イギリスのインドに対するようないわゆる植民地支配を行っていたのではないのである。

「植民地支配と侵略によって、多くの国々、
とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」(村山談話)
などと虚構の歴史に依拠した罪悪感に苛まれて卑屈になる必要など寸毫もない。

以上


(1)中学用歴史教科書(東京書籍)p180
(2)中学用歴史教科書(日本文教出版)p194
(3)中学用歴史教科書(学び舎)p219
(4)小熊英二『日本人の境界』p369参照
(5)松田利彦『戦前期の在日朝鮮人と参政権』p37参照
(6)舛添要一「立候補した父親とハングルの選挙ビラ」
  (講談社『現代』2001年1月号所収)p221参照
(7)中学用歴史教科書(東京書籍)p180
(8)針原崇志『日本統治時代の朝鮮の教科書』参照
(9)中学用歴史教科書(日本文教出版)p195
(10)松田利彦p107参照
(11)松田利彦p81参照
(12)官報号外(昭和10年2月6日付)p206〜207 原文は旧仮名遣い
(13)同p211〜211 原文は旧仮名遣い
(14)小磯国昭『葛山鴻爪』p752
(15)同p757参照
(16)朝鮮総督府『普通学校修身書』巻五(教師用)p26〜27
(17)朝鮮総督府『施政三十年史』p140
(18)中学用歴史教科書(清水書院)p221

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