弔辞
― 草地貞吾先生を偲んで ―
(平成14年)

大東亜聖戦大碑護持会代表

板垣 正

敬仰してやまない故草地貞吾先生の「みたま」の大前に、大東亜聖戦大碑護持会を代表して、謹んでお別れの言葉を申し述べます。

思えば本年8月4日、金沢市の石川護国神社の聖戦大碑を仰ぎ、盛大に挙行された第一回大東亜聖戦祭が最後の機会となりました。
御高齢と体調に対する周辺の懸念にもかかわらず、草地先生はご夫妻で前夜祭にもご出席になり、全国の同志達の歓呼に応えられました。そして聖戦祭当日も、変わらぬ凛然たるお姿に接しましたが、式典では祭壇を前に高らかに「大東亜おほみいくさは萬世の歴史を照らすかがみなりけり」と97歳の生涯をこめられる如く力強く訴えられました。
まさに草地先生の真骨頂と申すべく、参会者一同大きな感動に包まれました。

顧みれば草地先生は周知のごとく関東軍作戦班長として終戦を迎え、旧ソ連抑留11年の試練をこえて昭和31年帰国復員されました。
まさに波乱万丈の人生に加え、驚嘆にたえない事は、50代半ばにして昭和35年、日本大学文理学部に入学、歴史学科を専攻し同38年卒業され、古今東西の歴史に改めて関心を注がれました。
そして高校中学教員の免許状を取得され、昭和39年日大桜丘高校講師、同42年から49年まで国士舘高校・中学の校長として、自ら子弟の育成に精進されました。先生は決して一介の武弁ではなかったことを示された次第であります。

しかし草地先生が最も力を注がれたのは、自らも一軍人としてそのすべてをかけられた大東亜戦争の世界的意義について明らかにし、日本の名誉回復をはかることでありました。戦後占領軍の徹底した日本弱体化政策と、極東国際軍事裁判により我が国の歴史は否定され、侵略国家として一方的に断罪されました。
悲しむべき事は日本人自身がいわゆる東京裁判史観によって洗脳され、自国の歴史に対する誇りを喪失し、あえて罪悪視して憚らない反日的勢力がなお横行している現状であります。

先生はこの混迷を座視するに忍びず、著作や講演活動を通じ、日本の歴史の真実を訴え輿論喚起のため積極的に取り組まれ、常に歴史は大局的に見よと主張されました。
そして
「大東亜戦争は世界史空前の大偉業であった。それは五百年にわたる世界の旧植民地時代をこの戦争によって終焉せしめたのである。現在世界には約200ヶ国が存在しているが、戦前には50ヶ国に過ぎなかった。150という新しい国々は大東亜戦争を契機として生まれ、苦難の中で独立自尊の道を歩んでいる。」
と深い学殖に裏付けられた信念を吐露され、日本人の自覚と誇りを訴えられたのであります。
そしてまさに天の配剤というべきか草地貞吾先生と石川県「日本をまもる会」中田清康会長との劇的な出会いが一躍「大東亜聖戦大碑」建立への道を開くに至るのであります。その契機となったのは平成7年終戦50周年の意義深い年に際し、あろうことか国会謝罪決議や村山首相の謝罪談話をめぐるまさに亡国狂乱の極限状況であります。

全国的な国会謝罪決議反対の国民運動が展開され、500万を超す反対署名請願が提出されたのはこの時であります。そして草地先生と中田氏を結びつけたのもこの流れであります。自身シベリア抑留3年の中田氏は、つとに憂国の志高く昭和37年石川県「日本をまもる会」を結成し活発な運動を推進して来ました。
この都市も年頭から金沢市で「亡国謝罪病を斬る」と題した講演会を開催、3月3日には上京しNHK偏向抗議デモに参加しています。そしてこのとき参加して居られた草地先生との初めての出会いがありました。
この縁で同年7月24日中田氏は金沢市で主催した「英霊に対する感謝追悼の大行進」に先生を招きました。
ここに草地・中田両憂国の士のまさに肝胆相照らす間柄が成立したのであります。

そしてこの亡国状態への反撃は百千万の口舌より、大東亜戦争の正義と日本の真実を明らかにするため聖戦大碑を建立することが「双方が長年心に温めてきた信条の結晶」として期せずして一致したと言われます。
従来の慰霊碑や記念碑とは全く異なる空前の「大東亜聖戦大碑」建立の大事業が発起されたのであります。平成8年を中田氏は真日本回帰元年とし、3月には国際大講演会に再び草地先生を招きさらに11月に再協議し、4年後の紀元2660年、西暦2000年20世紀の精算として8月初旬大碑完成を目指すことになりました。
草地先生を委員長とし中田氏を実行委員長とする聖戦大碑建立委員会が発足し副委員長には石川県県会議員英霊にこたえる会会長の米沢外秋氏、かねて草地先生とも親交の厚い名越二荒之助氏、中村粲氏の三氏が就任し、まさに救国の決意のもとに力強い推進が図られることになりました。
平成10年初頭から本格的な募金活動が開始されこの年5月には石川護国神社鏑木宮司の熱意により境内の最適地が建立地として正式決定をみました。
その後特に地元関係者の努力により万難を排し計画通り進行し、平成12年8月4日聖戦大碑完成の記念式典が意義深く挙行された次第であります。
碑は高さ12メートル、正面の大東亜聖戦大碑の大文字は本日祭壇近くに掲げられている掛け軸の字であります。ご住職の中村教成和尚がここにおられますが、平成8年11月の石川県能登柴垣本成寺における建立達成祈願の折の草地先生の揮毫であります。

聖戦大碑建立協賛の呼びかけに対する反響は大きく、全国から三千件を超える個人団体グループの応募がありさらに海をこえブラジル・ハワイ・台湾からも熱い協賛が寄せられました。浄財は9000万円を超えました。石碑の側面には篤志協賛者約600名の氏名が刻まれました。また団体名約300は玉砕部隊や敬仰顕彰すべき部隊等の名は永遠に残すべきだとして特に陸士58期の多治見國正氏の献身的な奉仕により実現を見たものであります。
当日は約2000名の参列者を前に草地貞吾式典委員長は大東亜戦争は昿古の世界史的大偉業とその意義を強調し、聖戦大碑は戦後の誤った歴史観の蒙を覚醒し、日本の正気を復活するとともに、今次大戦に散華した我が国はもとより世界万邦の英霊に感謝追悼顕彰の誠を捧げる為に建立したものであります、と結ばれました。大東亜戦争は世界維新戦争と位置付け、まさに恩讐を超え人類の維新完成へと遠大な理想の呼びかけは草地精神の真髄とも言うべきものと信じます。聖戦大碑の建立に対して戦争を美化するもの等の批判はいかに見当外れの浅見に過ぎないか明瞭であります。この日を境に聖戦大碑建立委員会は護持会と改称されました。

大碑建立の目的は碑の完成によって終りではなく日本の本然を取戻すための一里塚に過ぎない、そして今後日常活動大碑の維持管理と共に毎年8月4日広く国民参加を呼び掛け大東亜聖戦祭を催すこととなりました。
我が国を巡る内外の情勢は極めて厳しく、期待された小泉首相は阿yす國神社参拝の問題をめぐってむしろ憂慮すべき事態さえ招来しています。

我が国の然と益々多難のとき偉大な愛国者草地先生を失ったことは誠に痛恨の極みであります。聖戦大碑護持会は本年1月米沢外秋副委員長急逝の打撃を受けいま大黒柱を失い衝撃ははかり知れないものがあります。
ここに草地貞吾先生が最後まで燃え尽くされた97年の見事な御生涯を讃え、多年にわたる御教導に深甚なる感謝を捧げ、心から御冥福をお祈り申し上げる次第であります。
私どもは微力ながら御遺志を体して相携えて素志の貫徹を期する次第であります。
何卒お見守り下さい。

平成13年12月22日

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