第5章 朝鮮統治



韓国併合に至った経緯を正確に記述すべきである



日露戦争のさなかから、韓国は、日本による植民地化の動きにさらされていきました。1905(明治38)年には外交権がうばわれ、1907年には皇帝が退位させられて、韓国の内政は韓国統監府ににぎられました。このため国内では民族的抵抗運動が広がり、日本によって解散させられた兵士たちは、農民とともに立ち上がりました。これは日本軍によって鎮圧されましたが、日本の支配に対する抵抗は、その後も続けられました。
1910年、韓国は日本に併合されました。(東京書籍 一六〇頁)

多少の文言の違いはあるものの、扶桑社を除くいずれの教科書もこれと似たり寄ったりの記述である。しかし、わが国が韓国を併合するに至った経緯は、このような日本の征服欲一辺倒という単純なものではない。

前述のように、朝鮮(後に韓国)政府は、一八八〇年代には親日派と親清派が対立し、清国が日清戦争で敗れた後、今度は親日派と親露派が対立するなど、常にいずれの勢力に付くかで揺れ動いていた。

日露開戦前には朝鮮政府は親露的であったが、開戦するや、わが国は緒戦でロシア艦隊に大打撃を与えるなどの活躍を見せたため、一気に親日に傾いた。そこで、開戦間もない一九〇四(明治三十七)年二月二十三日に日韓議定書が調印され、韓国が日本の忠告を受け入れて施政を改善することや、韓国の独立と領土保全を日本が保障することなどが約された。これを受けて八月二十二日に締結された第一次日韓協約では、韓国の財政と外交に関しては、日本人の財政顧問、外交顧問の諮問を受けることとされた。

翌一九〇五(明治三十八)年、わが国は日露戦争に勝利したが、余力をほとんど残さない辛勝であり、一方のロシアは十分に余力を残しての敗戦であったため、完全にロシアの脅威が去ったわけではなく、力を回復すればふたたび朝鮮半島を狙い、これに合わせて韓国もふたたびロシアに傾いてしまうおそれがあった。したがって、下関条約のように韓国の独立を確認するだけではなく、同年九月五日に締結された日露講和条約(ポーツマス条約)では、わが国が朝鮮を保護国とすることをロシアに承認させたのである。なお、これに先立つ七月二十九日にはアメリカと桂―タフト協定を結び、八月十二日にはイギリスと第二回日英同盟協約を調印して、韓国を保護国とすることを確認している。

これを受けて第二次日韓協約が締結され、日本が派遣する統監が外交に関する事項を管理するものとし、韓国の外交権を掌握した。こうして韓国は日本の保護国となり、初代統監に伊藤博文が就任した。

保護国とは、ある国がその外交権や防衛権、あるいは内政権も含めて、他の国に委ねるというものであって、保護国といえどもあくまでも独立国である。たとえば、今でもモナコはフランスに外交権・防衛権を委ねる保護国ではあるが、れっきとした独立国であって、モナコがフランスに植民地化されている、との認識は誤っている。それと同様、日本が韓国を保護国としたことをもって、韓国を「植民地化」したとする帝国書院(一七四頁)や東京書籍(一六〇頁)の記述は、全く誤った認識なのである。

また、大阪書籍(一六〇頁)、教育出版(一三二頁)、清水書院(一六八頁)、東京書籍(一六〇頁)、日本書籍新社(一六二頁)は、日本が韓国の外交権を「うばった」と、わざわざ人聞きの悪い不穏当な言葉を用いて記述しているが、右の例でいえば、モナコはフランスに外交権を「うばわれている」のではなく、条約で「委ねている」のである。これと同様、日本が韓国の外交権を掌握したのは、条約による「委任」であって、これを「うばった」と表現するのは、不正確かつ不適切であり、修正を要する。

この時点ですでに韓国を併合すべしとする意見もあったが、わが国が韓国を併合することはなかった。併合による負担があまりにも大きいからである。さきに述べたように、わが国は日露戦争には勝利したものの、持てる力を使い果たしての辛勝であったため、本国を防衛した上、さらに韓国をもロシアの脅威から防衛するだけの十分な余裕がなかった。したがって、韓国を併合することなく、韓国が近代化を果たし自存自衛を果たしうるまで、韓国がロシアに傾くことのないよう、外交権・防衛権を掌握することだけを取り決めたのである。つまりわが国は、できることなら韓国が自力で近代化を果たし、韓国自身が韓国を防衛することを望んでいたのである。

ところが、第二次日韓協約の取り決めにもかかわらず、一九〇七年六月、韓国皇帝はオランダのハーグで開催された万国平和会議へ密使を送り、独立回復≠訴えた。(ハーグ密使事件。なお、韓国には外交権がないとの理由で、全権委員の会議参加は拒絶された。)

この事件をきっかけに、伊藤は高宗皇帝を廃立した。廃立とは、臣下が君主を退位させ、別人を即位させることである。これによって抵抗運動がいっそう激化したのであるが、しかし、この措置は諸外国の例に比べればきわめて穏当なものであった。

韓帝は戦争中ロシアに通じ、外人記者を買収し、日本軍の鉄道・電信の破壊を内密に命じました。これは日本に対する背信行為であり、当時の列強だったら、国王は流刑されるか暗殺されていたでしょう。当時の諸外国の例を挙げれば、一八五七年、セポイの反乱では王族を皆殺しにし、帝はビルマに流刑された(イギリス)。一八八七年、ベトナム最後の帝はサハラ砂漠に幽閉(フランス)、一八八五年、ビルマ国王はボンベイに流刑(イギリス)、一八九六年、マダガスカル王を流刑(フランス)、一九〇〇年、ハワイ王家を廃絶し、一市民に格下げ(アメリカ)でした。

(名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』二四〇〜二四一頁)

東京書籍(一六〇頁)はそうした高宗皇帝の背信行為に触れることなく、「1905(明治38)年には外交権がうばわれ、1907年には皇帝が退位させられて、韓国の内政は韓国統監府ににぎられました。」(傍点引用者)とだけ記述しているが、いかにも日本の横暴の一環として何の理由もなく突如退位させたような印象を与える記述であり、不適切である。よって、修正ないし削除すべきである。

この事件をきっかけに、日本では一気に併合を進めるべきだとする声が高まったが、しかしここでも韓国を併合することはなく、第三次日韓協定を締結し、統監が韓国の内政に関しても指導する旨を取り決めたのみであった。

ここに至ってもなお日本が韓国を併合しなかった最大の理由は、伊藤博文の存在である。当時の日本には併合推進派と反対派があったが、統監であった伊藤は一貫して韓国併合に反対していた。その理由の一つは、前述のように、韓国を併合すれば日本自身も多大なる負担を背負わなければならないというものであるが、そうした理由ばかりではなく、伊藤は、韓国の将来性を高く評価していたのである。

韓国を訪れた新渡戸稲造が伊藤と面会した際、伊藤はこう語ったという。

「朝鮮に内地人を移すという議論が大分あるようだが、我輩はこれに反対しておるのじゃ。」
「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない。」
(新渡戸稲造『偉人群像』三一〇頁。原文は歴史的仮名遣い)

つまり、伊藤は韓国を支配≠オていたというより、むしろ、韓国人の資質を高く評価し、いずれ韓国人自身が韓国を統治することを願いつつ、しかしその政治は問題を抱えているとの認識から、施政改善、つまり政治改革に努めていたのである。

ところが一九〇九(明治四十二)年十月二十六日、伊藤は、皮肉にも日本の支配≠ノ反対する安重根に暗殺されてしまう(後に詳述)。
これに衝撃を受けた太皇帝(高宗)は、伊藤の死を惜しんでこう語った。

伊藤を失ったことで、東洋の人傑がなくなった。公はわが国に忠実正義をもって臨み、骨を長白山(=白頭山 引用者註)に埋めて、韓国の文明発達に尽すと揚言していた。日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である。
(名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』二三七頁)

この時点で伊藤はすでに統監を退職していたが、それでもなお韓国併合反対派の最大の重鎮であった。しかしその伊藤が暗殺されたことで、流れは一気に韓国併合の方向に傾いてしまった。また韓国内でも、公称百万の会員を擁する政治団体「一進会」などが積極的に合邦を訴えて活動し、この流れを促進した。

こうして一九一〇(明治四十三)年八月二十二日、韓国併合条約が調印され、併合に至ったのである。

日露戦争以降、韓国併合に至るまでには、このような経緯があったのであり、各教科書が記述するように「日本は韓国征服をもくろみ、日露戦争に勝って以降次第に韓国支配を強めていって、抵抗運動を武力弾圧して、最終的に併合した」といった単純なものではないのである。第一、そのような記述では、教科書を読んだ生徒は、そんなに韓国を支配したいのなら、なぜハーグ密使事件の時点で、あるいはポーツマス条約締結の時点で、あるいはさらにさかのぼって下関条約締結の時点で、一気に併合してしまわなかったのか、理解することはできないであろう。教師もまた、生徒からそのような質問を受けたとき、明快に回答できないのではなかろうか。

教科書のページ数の都合上、上記のすべては記述できないにせよ、日韓併合の経緯を正しく理解させるためには、少なくとも、日露戦争後もロシアの脅威が残っていたために韓国を保護国とせざるをえなかったこと、日本国内に韓国併合推進派と反対派があったが、初代朝鮮統監であった伊藤博文は強硬に反対していたこと、その伊藤が安重根に暗殺されたことで日韓併合が促進されたこと、韓国内の世論がこれを後押ししたこと、その程度は記述すべきであろう。したがって、いずれの教科書も修正すべきである。



バランスを欠いた安重根の記述は修正ないし削除を要する


前述のように、日本による韓国支配に反対する安重根が伊藤博文を暗殺したことで、かえってその意に反して一気に韓国併合が進んだのであって、安重根の行動は軽率であったといわざるをえない。

とはいえ、その人物自体はけっして愚物ではなく、敬虔なキリスト教徒にして、深い知識も兼ね備えた人物であった。そして逮捕後は潔く罪を認めており、その堂々たる態度に、日本人の検察官や判事までも深い感銘を受けたという。

彼が旅順へ護送される途中、このようなハプニングが発生した。

列車がある駅で停車していたとき、列車内に不意に乗り込んできた一人の日本人巡査が「この野郎!」と叫び、安に殴りかかった。彼は憤激したが、日本人将校が巡査を引き離し、下車させてから、
「日本と韓国との間に、こんなよくない人間があってはならない。怒らないでくれ。」
と詫びたところ、安も、
「こんなことで腹を立てているようでは情けない話です。もう二度としないよう、心に誓ったところです。」
と答えた。
(斎藤泰彦『わが心の安重根』一五八頁参照)

また、次の言葉なども、その人柄を象徴しているといえよう。

私は、本当にやむにやまれぬ心から、伊藤さんの命を奪ってしまいました。……

自分の行為に対する正邪の判断は、後世歴史の審判にまつとして、私はこの大切な命を天にまかせて、祖国のために捨てようと決心したのです。それが遠い遠いわが祖先から頂戴した無窮なる命の流れに、また帰ってゆくのだと考えたのです。……もうくよくよするのはやめようと、検察官の尋問に答えたのもそのためです。悠久なる韓国の歴史の上に一個の捨石となれば、満足であると私は思っています。いつの日にか、韓国に、日本に、そして東洋に本当の平和が来てほしいのです。千葉さん、わかってください。
伊藤公にはまったく私怨はなく、公にも家族にも深くお詫び申し上げたいのです。
(同書 一七八頁〜一七九頁)

「千葉さん」とは、彼の監獄の看守であった日本軍憲兵の千葉十七である。千葉もまた安に感銘を受けた日本人の一人であり、安を師と崇めたという。そして安もまた千葉を深く信頼し、処刑される直前、こう言い遺した。

「親切にして頂いたことを深く感謝します。東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです。」
(名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』二四八頁)

安の死後も、千葉はその供養を続けたという。

要するに、安重根は単なる偏狭なナショナリストなどではなく、東洋の平和と日韓の友好をも願っていた、真の愛国者であったといえよう。伊藤博文も安重根も、ともに日韓友好・東洋平和を願っていたにもかかわらず、安が伊藤を暗殺してしまったのは、誤解がもたらした悲しい事件だったのである。

結果のみをとらえて安重根の行為を「愚行」と評価することもできよう。また暗殺という不当な手段に対する非難もやむをえないものではあろうが、しかし、祖国のために一身をなげうったその愛国精神自体は、民族如何を問わず、きわめて尊いものである。したがって、韓国人が安重根を民族の英雄として韓国の教科書に掲載し讃えることについては、十分に理解できる。

ただし、各教科書会社が作っているのは、あくまでも日本の教科書である。にもかかわらず、たとえば帝国書院(一七五頁)などは、日本の初代内閣総理大臣として日本の近代化に尽力し、大日本帝国憲法の制定に努めた伊藤博文については特にコラムを設けていない一方、これを暗殺した安重根については『韓国の教科書にみる安重根』と題するコラムを設け、解説している。明らかにバランス感覚を欠いているといわざるを得まい。よって、修正ないし削除を要する。

第一、愛国心≠否定的にしか捉えられない(と思われる)扶桑社を除く各教科書の執筆者が、本当に安重根の行為の真価を理解しているのかどうか、怪しいものである。ただ単に反日教科書作成のネタの一つとして彼を利用しているだけならば、それはむしろ日韓友好を願った彼の遺志に反するものとさえいえるのではなかろうか。安重根について記述するのであれば、そうしたこともよく考慮した上で記述すべきであろう。



朝鮮を植民地支配したとの記述は修正ないし削除を要する


いずれの教科書も、わが国が朝鮮を植民地として支配したとの認識に立っている。植民地の定義にもよるが、ごく広く、母国民が移住している属領、などと解釈すれば、たしかに朝鮮はわが国の植民地といえる。

しかし、通常「植民地支配」との文言からは、宗主国が母国の利益を図るために外地を支配し、入植者が現地人を虐げ、富を収奪する、といった印象を受けるが、日本と朝鮮との関係はけっしてそのようなものではなかった。

たとえば、後述のように、わが国は朝鮮で学校を建設して教育を施し、衛生を向上させ、産業の発展に努め、インフラを整備した。しかもこれらの財源は内地(日本本土)からの投資によるところが多く、朝鮮から利益を上げる、などとは程遠いものであった。

そして、朝鮮の王族や貴族はわが国の皇族や貴族に準じて遇せられていた。たとえば、ハーグ密使事件を起こすなど再三にわたりわが国の統治に反発し妨害してきた李太王(高宗)であっても、一九一九(大正八)年に薨去(こうきょ)された(亡くなられた)際には国葬に付され、日朝両民族がともに喪に服した。一九四五(昭和二十)年八月六日、李■(金へんに禺)(りぐう)公が、広島で被爆死された際には、お付き武官の吉成弘中佐は責任を感じて割腹して殉死し、京城(けいじょう=いまのソウル)では阿部信行総督はじめ各界要人が参列して丁重に葬儀が執り行われた。つまり、李王族はわが国の皇族同様に尊重されていたのである。この点、たとえばイギリスがビルマを植民地とした際、ビルマの国王夫妻を流刑とし、王子を処刑し、王女を身分の低いインド兵に与えた、というのとは全く異なる。

また、大阪書籍(一六〇頁)は「朝鮮の人々には選挙権を認めませんでした。」と記述しているが、内地に在住する朝鮮人には選挙権・被選挙権が認められており、朴春琴(ぼくしゅんきん)衆議院議員など朝鮮人が議席を獲得していた。そして選挙の実施こそ実現しなかったものの、一九四五(昭和二十)年四月には衆議院議員選挙法が改正され、朝鮮在住の人々にも選挙権が認められている(後に詳述)。

軍隊では、朝鮮人将校が日本人の兵士を率いることもあり、洪思翊(こうしよく)中将のように軍の中枢にまで上りつめた者もいた。

通常のいわゆる植民地にあって、原住民が完全に被差別的立場に置かれていたのとは全く異なっていたのである。

いずれの教科書も、わが国が朝鮮で進めた「同化政策」を否定的にのみ記述しているが、同化とは、要するに朝鮮人を日本人同様に遇しようということであって、たとえば、朝鮮人が帝国議会議員として国政に携わり、陸軍中将として軍の中枢で指揮をとることも認める、これが同化である。現地人が家畜同然に扱われたいわゆる「植民地支配」とは全く異なるのである。(したがって、日本が朝鮮を「植民地支配」して「同化政策」を推し進めた、という記述は、日本が朝鮮を差別して差別をなくした、という矛盾した記述であるということもできよう。)

しかもわが国は、こうした同化政策を進めつつも、朝鮮の文化を否定し抹消することはなく、ハングルの普及に努めるなど、朝鮮固有の文化も尊重していた(後に詳述)。

そもそも、わが国の朝鮮統治が安全保障と深くかかわっていたことは、これまでにも再三述べたとおりである。にもかかわらず、わが国が朝鮮を「植民地支配」し、圧政を敷いて暴虐の限りを尽くせば、朝鮮の民心は離れてしまい、たとえばロシア(後にソ連)に付け入る隙を与えてしまうことになろう。そしてロシア(ソ連)がこれに乗じて朝鮮を支配するようなことにでもなれば、朝鮮と一衣帯水にある日本の独立や安全が脅かされてしまうのである。

現に、朝鮮在住の人々への参政権付与を求める朴春琴議員が、政府の煮え切らない態度に、議会でこう詰め寄る場面もあった。

「日本は何時も優勢時代でおればよろしいけれども、事があった時にこの二千万(の朝鮮人)が味方になるか、敵になるかということを、わが国家として余程考えなくてはいくまいと思います。」
(小熊英二『〈日本人〉の境界』三八一頁)

つまり、朝鮮を敵に回すということは、わが国にとって甚大なる脅威だったのである。そのような恐れもあってか、わが国の朝鮮統治は、各教科書から想起されるような凄惨なものではなく、きわめて穏当なものだったのである。

もっとも、そうした恐ればかりではない。韓国併合に際して、明治天皇は、『韓国併合ニ関スル詔書』を勅せられ、その中に、次の趣旨の施政方針が掲げられていた。

@併合後も韓国皇帝と王族は相当の待遇を受ける。
A韓国民衆は明治天皇の慈愛の下、安らぎと幸福に満ちた生活を送ることができるようにしたい。
B太平のもと、産業や貿易を顕著に発展させるようにしたい。
Cこれらの目的を達成するために、朝鮮総督を置き、総督は陸海軍を統率し、諸般の政務を統括させる。
D(日本の)官僚・役人はこの趣旨を充分に理解し、かつ現地の実情を踏まえて政治を担当し、朝鮮民衆をして太平の喜びを感じることができるように努めよ。
(名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』四〇五頁)

朝鮮統治は、基本的にこのような勅旨に則っておこなわれたのである。
以上から、日本と朝鮮との関係を宗主国と植民地との関係ととらえるのは不適切であろう。むしろ、今でもイングランドとスコットランド・ウェールズ・北アイルランドが共通の国王を戴いて「連合王国」(イギリス)を構成しているが、これに近い関係であったといえる。スコットランドはイングランドの植民地である、との認識が不適切であるように、朝鮮は日本の植民地であった、との認識もまた不適切なのである。

したがって、わが国が朝鮮を植民地支配したとの記述は、修正ないし削除を要する。



日本が朝鮮の文化を否定し抹消した旨の記述は修正ないし削除を要する


わが国が朝鮮を統治する中で、朝鮮の文化を抹消しようとした旨を記述する教科書があるが、わが国はむしろ、朝鮮の文化を尊重し、保護していた
たとえば、朝鮮文化の象徴ともいえるハングルの普及にも、大いに貢献している。

ハングルは、一四四六年、李氏朝鮮第四代国王・世宗(せいそうにより、官吏から庶民にいたるまで用いることのできる文字として公布されたものである。しかし、中国を中心とした中華文明の影響下にあった朝鮮では、漢字を用いることが文明の証であり、民族独自の文字を持つことは野蛮と考えられていた。また新しい文字を創ることは中国に対する謀叛として怒りを買う恐れがある、と考える両班(ヤンバン=朝鮮の貴族)の反対が根強く、十六世紀初頭には、公的には用いられなくなった。

再び公的に用いられるようになるには、十九世紀末まで待たなければならなかった。当時、日清戦争に敗れた清国が朝鮮を独立国として承認したのをきっかけに、李王高宗が皇帝を称し、国名を大韓帝国に改めるなど、独立国としての体裁を整えるよう努めていた。その一環として、ハングルを民族の文字として公文書でも用いることとしたのである。これに伴い、漢字ハングル混交文の新聞・雑誌も数多く発刊された。

なお、それよりも以前からハングルの普及に尽力していた日本人、福沢諭吉と井上角五郎の労苦も忘れてはならない。

福沢は、朝鮮を発展させ清国からの独立へと導くには、まず朝鮮の識字率を高める必要があると考え、朝鮮固有の文字であるハングルに着目した。そこで、福沢の弟子であった井上が朝鮮政府に招聘され、朝鮮に向かう前、福沢は、朝鮮語による新聞を発行する必要性を井上に諭した。新聞の発行は、清国官憲や両班などからの抵抗に遭い、困難を極めた。しかし、福沢自身も自費でハングル活字を作るなど協力した結果、一八八六年、朝鮮で初めての漢字ハングル混交文の新聞『漢城週報』の発行を実現させたのである。

その後、日本統治下に入った朝鮮でも、ハングルの使用が禁じられることはなく、朝鮮総督府はむしろハングルの普及に努めた。

たとえば、朝鮮総督府は一九一二(明治四十五)年に『朝鮮語辞典』の編纂に着手し、一九二〇(大正九)年にこれを刊行している。
そして、学校教育の中でも朝鮮語教育が実施されていた。

一九一〇年の時点では、普通学校(小学校)は官立・公立・私立合わせて一七一校、就学者は約二万人程度であったが、その後建設を進め、一九四三年には三八五五校、就学者は約二百万人にまで増加した。

これらの普通学校では日本語が「国語」として教えられていたが、それとともに「朝鮮語」が必須科目とされ、ハングルも教えられていた。一九三八年以降、朝鮮語は必須科目ではなくなり、一九四一年には朝鮮語の授業は行われなくなったが、その間、朝鮮総督府はハングルの普及に尽力していたのである。
そのほかの授業は日本語で行われていたが、後に紹介するように、朝鮮の地理や歴史なども教えられていた。

最高学府でも、一九二四(大正十三)年に設置された京城帝国大学には、朝鮮語文学科が設けられ、『古代朝鮮語と日本語』『朝鮮のこころ 民族の詩と真実』ほか数多くの著書を残した金思Y博士などを輩出している。

つまり、「朝鮮民族の習慣や文化を否定し」(大阪書籍 一六〇頁)、「韓国固有の文化や歴史を教えることは禁じられました。」(帝国書院 一七五頁)、「学校では朝鮮史を教えることを禁じ」(東京書籍 一六〇頁)といった記述は、まったく史実を無視したデタラメであり、歴史を捏造した記述なのである。子供たちにウソを吹き込まないでいただきたいものである。よって、これら各社の記述は、修正ないし削除を要する。



わが国が朝鮮の民生向上に尽力した事実を記述すべきである


扶桑社を除くいずれの教科書も黙殺しているが、前述のような教育振興のほか、わが国は朝鮮を統治する中で、大いにその民生向上に尽力した。

その成果をもっとも端的に示しているのが、朝鮮における人口増加である。一九一〇年には約一千三百万であった朝鮮の人口は、一九四三年には倍の約二千六百万にまで増加している。これは要するに、それだけの人口を養えるだけの産業が発展し、衛生環境が整ったことを意味している。

たとえば米生産高については、一九一〇年には約二億七千万円程度であったのが、灌漑整備により水田の面積あたりの生産量が増加し、さらに開墾・干拓を行って増産に努めた結果、一九三八年には約六億四千万円にまで伸びている。また麦生産高についても、一九一〇年には約五千八百万円であったのが、一九三八年には約一億三千万円にまで増加している。生産が増えたのに伴い、内地(日本本土)への移出も増加したのは確かであるが、いわゆる搾取といわれるようなものではなく、朝鮮人自身も潤ったことは、人口増加を見れば明らかであろう。食べるものもないのに人口だけが勝手に倍増するわけはないのである。

また、林業でも多大なる成果を残している。日本統治以前の朝鮮では、焼畑農業が行われる一方、日本のような植林文化がなかったため、山地の多くははげ山であった。そのため山林は保水力を失い、洪水あるいは干害が頻発し、農業生産の伸び悩みにもつながっていた。そこで寺内正毅総督は、一九一一年に四六〇万本を植樹したのを皮切りに、その後、毎年約一千万本植林し、一九二二年までに一億四千万本の植樹を行っている。

こうした第一次産業のほか、鉱工業など第二次産業も振興した。鉱業実質生産高は、一九一四年にはわずか約七十二万円であったものが、一九三六年には約五千万円にまで増加し、工業実質生産高は、一九一四年の約一億三千万円から、一九三七年には約八億七千万円にまで達している。

このような産業開発のために、インフラ整備も進められた。たとえば鉄道では、併合前の一九〇六年にようやく釜山〜京城〜新義州を結ぶ路線が完成した程度であったが、一九四二年には官営・私営合わせて約六千キロが営業していた。ほかにも港湾の拡充、電力開発、郵便・電信・電話などの通信施設の整備なども進められた。

衛生環境についても、わが国が朝鮮を併合した当時、病院数は十ヶ所にも満たなかったが、一九四〇年には一六一ヶ所に及んだ。こうして衛生環境が整えられた結果、コレラやペストが流行することもなくなり、人口が増加する一因となったのである。

しかも、こうした一連の施策にあたっては、朝鮮での租税収入よりも内地からの投資によるところが圧倒的に多かった。たとえば、一九四三年の時点での朝鮮財政における歳出が合計約二十二億円であったのに対し、租税収入はわずか約四億五千万円であり、その不足分は内地からの拠出によりまかなわれていた。つまり、搾取などとは程遠いものだったのである。

以上のようなわが国の朝鮮統治に対し、満洲事変の調査に当たったリットン調査団のアメリカ代表マッコイ少将は、京城に宇垣一成総督を訪ねた際、次のような感想を述べた。

自分は昨夜から、東洋における一つの驚異を発見した。それは今回の長い旅行における大きい収穫であった。同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと恥じている。何であるかといえば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。我々は、朝鮮というところは、地理的には大体満洲の延長であるから、相変らず匪賊が横行し、産業も振わず、赭土(あかつち)色の禿山(はげやま)の下で、民衆は懶惰の(らんだの=怠けた)生活を送っているものとばかり思っていた。しかるに列車が一度鴨緑江(おうりょくこう)の鉄橋を越ゆるや、車窓に見え隠れする事々物々、みな我々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、農民は水田に出て、孜孜として(ししとして=一生懸命に 引用者註)耕作に従事し、平壌その他工業地の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に見える民衆は皆さっぱりとした衣服をまとい、治安はよく維持されて、なんらの不安もなく、群集は極めて秩序正しく行動し、かつその顔に憂色がなく、満洲に比べて実に隔世の感がしたのである。これはとりもなおさず、貴国の植民政策が妥当であって、歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを卒直におよろこびすると同時に、今後における我々の朝鮮観を根本より改めるであろう。
(鎌田沢一郎『朝鮮新話』三三〇頁 原文は歴史的仮名遣い)

わが国の朝鮮統治の実態を正しく教えるのであれば、朝鮮統治の成果を中立の立場から客観的に観察したこのような発言こそコラムで紹介すべきであろう。



土地調査事業を行って土地を奪ったとの記述は修正ないし削除を要する



以上のような施策にさきがけて、朝鮮総督府はまず土地調査事業を行った。
教育出版(一三二頁)、清水書院(一六八頁)、帝国書院(一七五頁)、日本書籍新社(一六三頁)、扶桑社(一七〇頁)は、この土地調査事業に触れているが、「韓国併合後、総督府は土地調査をおこない、共有地などを『国有地』として、朝鮮の農民の土地をうばい、東洋殖産など日本の土地会社に安く払い下げた。」(清水書院 一六八頁欄外)のように、いずれも否定的にしか記述していない。
しかし、朝鮮の実情を把握することは、前述の諸施策を行うためにも必要であり、また課税の適正化を図るためにも必要であった。

併合以前の韓国では、土地の近代的な所有権は確立されておらず、権利関係はきわめて錯綜していた。たとえば一つの土地に二重にも三重にも権利が重なっていることもあり、したがってその土地を耕す農民は、二重にも三重にも収穫が徴収され、農民の手元には何も残らない、ということも多かった。一方で隠田も多く、これらの土地は課税を逃れていた。このような不公平を解消することも必要だったのである。

土地調査の方法は、次のようなものである。

この調査では、政府は所定期間に地主に申告させ、境界には地主名、地目を書いた標識を立て、地主又はその代理人に立ち会わせた。その結果に異議のある場合は各道に設置する地方土地調査委員会に諮問して、土地調査局長が査定することとした。その査定に不服を有するものは、三十日の公示期間の後、六十日以内に高等土地調査委員会に不服を申し立て、更に特定の場合には決定の有った日から三年以内に再審を申し出る道を開いた。

(杉本幹夫『データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン』一六三頁)

要するに、地主立ち会いのもとで所有権を確定させ、異議があれば申し立ても認めて、錯綜する権利関係を整理していったのである。その結果、権利関係が重複していた土地では、一方の権利が認められれば、もう一方の権利は認められないこととなり、「朝鮮総督府に土地を奪われた」ということになったのであろう。

なお、朝鮮総督府自身が接収した土地もたしかにあった。そのなかで特に問題となっているのは、所有権が証明されずに接収された土地約二万七千町歩(約二六八平方キロメートル)であるが、これは当時の朝鮮の耕地面積約四八七万町歩(約四万八三〇〇平方キロメートル)のわずか〇・六パーセント足らずである。また、所有権が確定しないのであれば、国有地となってもやむをえないであろう。いまの法律でも、無主の不動産、つまり所有権の確定しない土地は国庫の所有に属するものとされている(民法第二三九条二項)。

また、多くの農民が耕作地を追われた、との記述もあるが、水利が悪く不作が続く耕作地では、税金が滞っており、たまに収穫があると徴税官が徴税に来るので、地主も耕作者も逃げ出し、無頼の徒が勝手に入り込んで、無断耕作することもあった。その者が自らの所有権を証明できず土地を追われた、というのであれば、不法占拠者である以上やむをえないことであろう。

したがって、「朝鮮の農民の土地をうばい」(清水書院 一六八頁欄外 傍点引用者)、「多くの農民が土地をうばわれたため」(帝国書院 一七五頁 傍点引用者)など、あたかも朝鮮総督府が正当な所有権を有する朝鮮人から不法に土地を強奪したかのような記述は修正ないし削除を要する。

むしろ、こうして土地調査事業を行い、土地の権利関係を整理した結果、租税の公正化が図られて、農民は二重、三重に収穫を徴収されることがなくなり、また土地利用のための売買も容易になったため、朝鮮の近代化を推し進めるための諸施策を行うのにも大いに資することとなった、という一面こそ評価すべきであろう。



朝鮮や台湾の人々に選挙権を認めなかったとの記述は修正ないし削除を要する



大阪書籍は「台湾と同様、朝鮮の人々には選挙権を認めませんでした。」(一六〇頁)と記述しているが、この「朝鮮の人々」を「朝鮮人」と解釈すれば、明らかに史実に反する。前述のように、内地に在住する朝鮮人には選挙権・被選挙権が認められていたからである。

また「朝鮮在住の人々」と解釈したとしても、必ずしも正確な記述とはいえない。

たしかに朝鮮では、日本統治時代、衆議院議員選挙が実施されることはなかった。
しかし、一九四五(昭和二十)年四月、衆議院議員選挙法が改正され、十五円以上の直接国税を納める二十五歳以上の男子との制限はあったものの、朝鮮でも選挙が実施されることとなった(第一五一条)。朝鮮には二十三の定数が割り当てられている。なお、台湾でも五の定数が割り当てられており、この点でも、大阪書籍の記述は正確な記述とはいえない(自治省選挙部『選挙法百年史』三三六頁〜三三七頁参照)。

ちなみに、一八九八年にアメリカに併合されたハワイの人々に選挙権が認められたのは、ハワイがアメリカ第五十番目の州となった一九五九年である。それよりも早く、朝鮮や台湾では選挙権が認められたのである。

もっとも、選挙を実施する間もなく、一九四五(昭和二十)年八月十五日に戦争が終結し、ポツダム宣言受諾によって朝鮮が日本の施政下から離れたため、結果として朝鮮で選挙が実施されることはなかったが、もし実施されていれば、朝鮮在住の朝鮮人が帝国議会の衆議院に議席を獲得し、日本の国政に携わっていたのである。そうなれば、いずれ十五円以上の直接国税という制限も撤廃され、定数ももっと増やされて、まったく内地と同等になっていたかもしれない。

この事実は、前述のように、わが国と朝鮮との関係がいわばイングランドとスコットランドなどとの関係に近いものであり、イギリスとビルマ、あるいはオランダとインドネシアとの関係のような、いわゆる宗主国と植民地との関係ではないことを示す重要な事実である。

したがって、選挙権を認めなかったとする誤った記述を削除するのみならず、むしろ、日本と朝鮮の関係を正確に把握させるためにも、一九四五(昭和二十)年四月には選挙権が認められた旨を記述すべきであろう。

なお、地方レベルでは一九二〇年代から選挙が実施されていた。

朝鮮は、京畿道はじめ十三の道からなり、道には道評議会が設けられた。その下に府(内地でいう市)や面(同じく町・村)があり、府には府協議会、面には面協議会が設けられた。この府協議会および一部の面協議会の協議会員は、選挙で選ばれていた。また道評議会でも、議員の三分の一は道知事の任命であったが、その他三分の二は、府・面協議会員などによる選挙で選ばれた。このように、朝鮮でも選挙が行われていたのである。

ちなみに、こうした選挙について、普通学校では次のように教えられていた。


皆さんはまた、道評議会や府・面協議会の議員の選挙の行われることをしっていますか。道評議会や府・面協議会は地方共同の利益を発達させ、衆民の幸福を増進するため、教育や勧業や土木や衛生等の仕事をするについて、いろいろな相談をするために設けられてあるのです。
皆さんも他日公民としてこの会議に加わる評議会員や協議会員となったり、あるいはこれを選挙したりすることが出来るのであります。評議会員や協議会員はいずれも公共の仕事の相談にあずかる大切な職でありまして、その人の適否は地方の幸福に大いなる関係があるのでありますから、性行の善良であって意見の正しい人を選ばなければなりません。金銭物品その他自己の利益のためにその本心をまげて選挙するようなものは、法律上処罰せられるのであります。なお他人に強いられて所信をひるがえしたり、あるいはみだりに投票を放棄するようなものも愛郷の念のないものというべきであります。また議員に選ばれたものは、その職責の重大なことを思い、熱心に共同の福利を図り、府・面の住民の信頼をむなしくしてはなりません。また公職の地位を利用して私利を図ったり、あるいはいたずらに部落の感情に駆られ、党派的精神に支配されて、紛擾を起こしたりするようなものは、共に郷里を愛護するものではありません。皆さんは公民として、自分の府・面のことはすなわち自分のことと考えて、自らこれを治めなければなりません。

(『普通学校修身書 巻五(教師用)』二十六頁〜二十七頁 原文は歴史的仮名遣い)

いまの日本の教育では、「民主主義を尊重しましょう」とは教えていても、ここまで具体的かつ丁寧に、選挙の大切さや投票の際の心構え、議員に選ばれた者の職責の重大性について、教えられてはいないのではなかろうか。それが当時は、初等教育の段階から、修身の授業の中で、朝鮮でも教えられていたのである。
もし、わが国にとって朝鮮、あるいは朝鮮人が単なる支配の対象であったならば、そのようなことは不要であるどころか、むしろ有害であるとさえいえよう。しかしわが国は、右のような民主主義教育を行い、朝鮮人の民主主義精神を育んでいたのである。こうした事実からも、わが国の朝鮮統治を「植民地支配」とする認識がいかに見当違いなものであるかが分かる。

それはともかく、こうした府・面協議会の選挙も含めれば、大阪書籍の記述は明らかに史実に反していることになる。いずれにせよ、修正ないし削除を要する。
また、こうして選挙まで行われていた以上、日本統治下の朝鮮で「あらゆる政治活動を禁止し」ていた(大阪書籍 一六〇頁)とする記述もまた史実に反するものであって、修正ないし削除を要する。

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